イジー・メンツェル監督『英国王 給仕人に乾杯!』ついに日本上陸!Vol.2

『英国王…』で頻出のアールヌーヴォー


先週末はポーランドのクラコフ&アウシュヴィッツへ行ってました。
プラハへ戻ってくると、なんだかホッとします。3年ぶりに帰国した日本から戻ったときもやはり。日本は生まれ育った国だし、外国に暮らせば恋しさも手伝って日に日に自分のなかで魅力をましていく日本。

それでもあまりにプラハが美しい街なので、故郷にいない寂しさもなぐさめられるのかな、きっと。

旧市街広場の有名な天文時計のある塔から眺めたプラハ城。

そして旧市街広場のカフカ(Franz KAFKA)生家跡の隣にそびえるバロックの傑作、聖ミクラーシュ教会(Kostel Svatého Mikulaše)とカルティエの間からヴルタヴァ川を目指すパリ通りこと、パジージュスカー(Pařížská)の夜景。

このパリ通りは、19世紀半ばまでここら辺いったいにあったユダヤゲットーを整備してできたもの。パリのシャンゼリゼ大通りを模した通りと言われています。本家に比べるとホントにかわいらしい距離なのだけれど、カルティエにヴィトン、エルメスバーバリーといったブランドショップが並ぶプラハいちゴージャスな通りになっています。
チェコのセレブも多く住んでいるこの通り、記憶に新しいところでは「のだめ…」のヴィエラ先生こと、元チェコフィル主席指揮者のズデニェク・マーツァル(Zdeněk MÁCAL)さんもパリ通りの住人だと、こないだ教えてもらいました。

さてプラハのパリといえば、黄葉美しいペトシーン(Petřín)の丘の上にももうひとつ。

ヤン・スヴィェラーク(Jan SVĚRÁK)監督の『コーリャ・愛のプラハ』でも出てきたプラハの展望台(Rozehledna=ロゼフレドナ)。
高さ60m、晴れてるときの見晴らしは最高だけど、エレベーターがないので約300段の階段を延々登ることに。。。映画の中では監督のお父さん、主人公ロウカを演じたズデニェク・スヴィエラーク(Zdeněk SVĚRÁK)さんが愛くるしいコーリャ少年と見事に登りきっていました。
これ、パリのエッフェル塔の5分の1モデルなんです。

ね、近くで見るとよくわかるでしょ? 写真はちょっとカレル・ゼマン(Karel ZEMAN)風(笑)にしてみました。

え、早く映画の話しろって? はいはい。前置きがいつも長いけど、全く関係ないってワケじゃないんです。このフランスつながりの話。
だって映画の中に出てくる、主人公ヤンが働く“ホテル・パリ”(Hotel Paříž)も実際はここ、Francouzská Restaurace(フランツオウズスカー・レスタウラツェ)、その名もフランスレストラン(まんま過ぎるやん)で撮られているんですから。

プラハのアールヌーヴォー建築で名高い市民会館(Obecní dům=オベツニー・ドゥーム)内にあるフレンチ・レストラン。

『英国王…』のなかで、主人公ヤン(Jan DÍTĚ)が尊敬する先輩のスクシヴァーネク(Skřivánek)給仕長の定位置もちゃんとある! そして美しい少女、ユーリンカが秘密めいた微笑を浮かべて登っていくあの階段も。

レストランの入口ではもちろんこの人、小さくても誇らしげなヤンが正装でお出迎え!


夜も頑張ってます。


パリでブレイクしたアルフォンス・ムハ(Alfons MUCHA、フランス語読みはミュシャ)の素晴らしい絵がある市民会館、ライトアップされる夜はいっそう幻想的。
入口を入って正面はスメタナ・ホール(Smetanová síň)、左はカフェ、そして右がこのロケがあったレストランです。

メンツェル(Jiří MENZEL)監督のインタヴューにチェスケー・ブディェヨヴィツェ(České Budějovice)まで行った翌日、インタヴュアーの友紀さんと一緒に来店!混んでて入れないということはないと踏んで予約もせず、かつうっかり普段着で行ってしまい、末席へ案内されそうになるも断固抗議。友紀さんを印籠のごとく見せつつ、ちょっとあなた、このかたを誰と思って? 日本からメンツェル監督のインタヴューのために来た有名な映画ジャーナリストなんですよ。表に飾ってある映画、12月に日本で公開されるんです。この人のために、もっとちゃんとした席へ案内して頂戴(な、何様〜)。と、一番いい窓側席をゲット。でもコンサートの前後に訪れる観光客も多いので、夜訪れるなら予約したほうがよいかもしれません。
料理はどれも繊細で美しく、味も上品で丁寧さを感じました。アルファベットの文字に至るまでアール・ヌーヴォーしてる素晴らしいインテリアの中で、映画で感じた感覚を四次元で追体験

かぼちゃのスープはしつこくなく自然な甘みが香り、細部までお洒落。

まぐろのステーキはボリュームも満足、とろけるようなポテトグラタンと彩り豊かな温野菜との相性がバッチリ。

香ばしいチーズが間仕切りになった、グリーンアスパラガスのリゾット。カリカリのプチトマトの皮がラムネのセロファンみたいに可愛くて気に入りました。

濃厚なソースでワインもすすむ柔らか〜いラム肉の一品。

いろんな味が一枚のプレートに詰まったフランス・チーズの盛り合わせ。

表面パリパリ、中はしっとりシアワセなクレーム・ブリュレ。

あ〜美味しかった〜シ・ア・ワ・セ♪ 今度は夜、シャンデリアの灯りのもとで味わってみたいな〜。

あ、映画の話でした、いかんいかん。

そう、この映画の中に出てくる最も美しいシーンのいくつかが、このレストランで撮影されています。うっとりとするような場面が。そして時代を反映する政治の匂いのするシーンも。原作者フラバル(Bohumil HRABAL)が、自身もどっぷりその世界に浸かりながら、同時に鋭い観察者となって、愛情深く見つめていたプラハのレストランやホスポダにまつわる人間模様も。タイトルの“英国王 給仕人”のエピソードもここで語られるのです。

この映画のフランスつながりは、プラハにおけるパリつながりのあれこれを連想させるわけですが、その最たるものはメンツェル監督自身でしょう。ジャン・ルノワール(Jean RENOIR)監督が大好きと公言し、とあるクラブでルノワール監督の名作『ピクニック』(UNE PARTIE DE CAMPAGNE, 1936)を解説付きで紹介。『ピクニック』へのオマージュの意味もあるという監督の『Rozmarné leto』(Capricious Summer/気まぐれな夏、1967、68年カルロヴィ ヴァリ映画祭グランプリ作品)のサーカス役者の役で見事に演じた倒立もやってみせてくれるという出血大サービスを目撃したのは今春のこと。70歳だというのに、なんてお茶目なのかしら!!とその時はそう思ったのですが、実際に間近にお会いしたら、いよいよ確信。

ひなぎく』のヴェラ・ヒティロヴァー(Věra CHYTILOVÁ)監督や『火事だよ!カワイ子ちゃん』(→今関係ないんだけど、このタイトルの力の抜けかた加減、めっちゃ好き)のミロシュ・フォルマン(フォアマン)(Miloš FORMAN)監督らとともにチェコヌーヴェルヴァーグの中心人物でもあったメンツェル監督。これもフランス・ヌーヴェルヴァーグとの共時性を抜きにして語れず、またトリュフォー(François TRUFFAUT)の『大人は判ってくれない』やゴダール(Jean-Luc GODARD)作品を多く配給してきたフランス映画社さんが『スイートスイート・ビレッジ』(Vesničko má středisková/My Sweet Little Village, 1985)に引き続いてメンツェル作品の『英国王 給仕人に乾杯!』を配給するのも、至極納得な流れだと感じるのです。

それじゃまた長いので続きはVol.3にて。またまた美味しいものが登場しますのでお楽しみに。

イジー・メンツェル監督『英国王 給仕人に乾杯!』ついに日本上陸!Vol.1

12月日比谷シャンテシネにて公開。


2ヶ月近くご無沙汰してしまいましたが、皆様いかがお過ごしでしょうか。
ブログの更新はおろか、衣替えすらままなっていないあいだに、秋も深まるプラハの木々たちはすっかり衣替えしております。


プラハ城の周りも、ヴルタヴァ川の周りも、黄色やオレンジや茶色ときどき赤で縁取られ、絵のような美しさ。先日お散歩したヴルタヴァ川に浮かぶストシェレツキー・オストロフ(射撃島)の黄葉の様子を少し。


カレル橋からひとつ上流に架かる橋、レギイー橋から降りていける射撃島は、夏の夜は青空映画館で賑わう場所。でもこの季節は喧騒をさけたいカップルと釣り人、それに水鳥たちが静かに佇んでいるのみ。




木々の間からかすむカレル橋が見えるでしょうか。この島からのカレル橋の風景は、ちょうどヴルタヴァ川の真ん中から見るような感じになってこれまたいいのです。

向こう岸に見えるのは、黄金の礼拝堂の異名を持つ国民劇場の建物。

ペトシーンの丘で見つけたたわわに実をつけたローズヒップ。これを乾燥させればビタミンCたっぷりのローズヒップティーになります。

小さなワイン畑にも秋の彩り。

さて、こんな秋真っ盛りのプラハに、日本から、とあるミッションのため3日間だけという強硬スケジュールでいらっしゃったこのお方。

文字通り世界中を飛び廻り、世界の監督、俳優さんたちから面白いお話を引き出す名インタヴュアー、佐藤友紀さん。で、今回のインタヴューのお相手は、南ボヘミア、チェスケー・ブディエヨヴィツェの劇場でリハーサル中。。。ということで友紀さんが現地へ赴くことに。劇場前になぜかあった林檎山積みトラックの前でパチリ。
そのインタヴュー相手とは、イジー・メンツェル(Jiří MENZEL)監督。

写真左がメンツェル監督、右はセマフォル劇場のイジー・スヒィ(Jiří SUCHY)氏。今年3月、プラハのとあるクラブでのイベント時のもの。

最新作の「Obsluhoval jsem anglického krále」(I Served the King of England/『英国王 給仕人に乾杯!』)で2007年のチェコ映画の最高賞であるチェコ・ライオン賞(日本アカデミー賞のような感じ)をもらったイジー・メンツェル監督。プラハでのプレミアの時にここでも書きましたが、なんと、今年12月からお正月にかけて日本でも公開が決定しました(日比谷シャンテ・シネにて)。

メンツェル監督は、弱冠28歳のときに『厳重に監視された列車』でオスカーをもらっているチェコでは知らない人はいない名監督。フランス・ヌーヴェルヴァーグに続くチェコ国内の60年代ヌーヴェル・ヴァーグを牽引したひとり、若いときから俳優としても活躍、演劇作品の監督なども引く手あまたで70歳の現在も現役バリバリ、という人。

この映画、ベルリン映画祭でも賞をもらったし、見ごたえのある作品なのに重くなく、うっとりと色っぽいシーンや笑えるシーン満載。とてもチェコっぽい(そこがいいのだけれど)、でもチェコっぽすぎて日本公開はされないかも、と半分あきらめていたのですが、公開が決まり、日本語字幕で見られるのが嬉しい。配給元のフランス映画社さんに感謝です。

前置きが長すぎたため(だって溜まってた黄葉写真アップしたいんだもの!)、続きはVol.2にて近日公開!
短い時間によくもここまで、と感動しまくりの友紀さんインタヴューの内容は、映画プログラムや雑誌に載るのを楽しみに待つとして、プラハでの映画のロケ地、関連場所などについて追って書きたいと思います。

プラハ在住の皆様も、年末年始一時帰国されるという方には強力にオススメの映画です♪

IFもしも…「プラハの春」が続いていたら。。。 Kdyby mohlo pokračovat Pražské jaro...?

…そして戦車がやってきた


3年ぶりの日本訪問を終えて、故郷の国から、懐かしい人たちからエネルギーをたっぷりもらって帰国しました。幸運にもお会いできた方々にお礼を申し上げるとともに、会いたくてもかなわなかった方々とは近いうちの再会がかなうことを願いつつ、プラハの日常へ戻りました。
久しぶりに聞いた蝉の声も、うだるような湿気を含んだニッポンの暑さもまるで幻だったかのような涼しいプラハ

ヴァーツラフ広場にもコスモスが美しく咲き、すっかり秋の気配です。

★「プラハの春」と「チェコ事件」
今からちょうど40年前の8月21日、正確には20日の深夜、チェコスロヴァキア(当時)は大きな悲しみに覆われました。新市街の中心的広場、ヴァーツラフ広場は、この悲しい出来事、いわゆる「チェコ事件」の象徴的場所です。
1968年8月21日早朝、“Rusové jsou v Praze!!”(プラハにロシア人がいっぱい!)の声で目覚めたチェコ人(ウチの旦那も例にもれず)が見たものは、プラハだけでなくチェコスロヴァキア全土に渡って夥しい数の戦車が美しい街々を蹂躙する姿でした。

第二次世界大戦後のヤルタ体制下、チェコスロヴァキアソ連・東側ブロックの一員として48年には共産主義政権が誕生。50年代のスターリン批判を経て、主に検閲の廃止や芸術表現の自由などを盛り込んだ「人間の顔をした社会主義」を目指し、独自の民主化路線、いわゆる「プラハの春」を歩んでいました。この動きに対し、ソ連や旧東欧諸国は共産主義体制存続の危機を抱きます。再三の交渉にも関わらず当時のチェコスロヴァキア共産党を率いるドゥプチェクの改革路線が不可避であるとわかった時、ソ連軍とワルシャワ条約機構軍(※チャウシェスク体制下のルーマニアをのぞく)はチェコスロヴァキアへの軍事侵攻を実行します。

40周年を記念して、国立博物館前に再び現れたソ連製戦車。

結果、108人の犠牲者と500人以上の重軽傷者を出し、社会主義の理想を追い求めた「プラハの春」は道半ばで頓挫します。ドゥプチェクが更迭された後、実権を握ったフサーク大統領の時代は「沈黙の時代」と呼ばれ、ソ連共産党が望む体制の「正常化」を強いられます。翌年1月には、改革の絶望的な後退に悲観したカレル大学生のヤン・パラフ(Jan Palach、チェコ・フィルの本拠地、ルドルフィヌム前の広場の名前にもなっている)、続いてヤン・ザイーツ(Jan Zajíc)が抗議の焼身自殺をとげる悲劇もありました。

ヴァーツラフ広場の南正面、国立博物館のすぐそばにあるJan Palachの自殺跡の記念碑。


ヴァーツラフ広場中ほど、聖ヴァーツラフ騎馬像の下にあるzajícとともに写真が飾られた記念碑。

68年当時現役の外交官として「チェコ事件」を目撃し、日本へ伝えた春江一也氏の小説『プラハの春』(集英社文庫、上・下巻)は、「プラハの春」前後のチェコスロヴァキアの状況を日本語で読める良書。物語にのめりこめるかは個人差があるにせよ、このヤン・パラフも重要な役どころとなって出てきます。この本を読むと、歴史にもしも…はないとしても、「プラハの春」が邪魔されることなく続いていたら、世界はどうなっていたのだろうと考えたくなります。ベルリンの壁崩壊が早まったのか、資本主義でも社会主義でもない第三の道があったのか、などなど。。。

さて40周年の今年は、各地で写真展をはじめ、様々な催しが。
いまだ当時の弾丸跡をその外観に残す国立博物館では、「…そして戦車がやってきた」(...a přijely tanky)と題する「プラハの春」と「チェコ事件」関連の展示が9月末まで続く予定。

ほぼ国葬扱いだったヤン・パラフのお葬式の様子などの映像、写真、チェコ国内でも初の公開となるドゥプチェクやパラフの愛蔵品、市民の手紙やイラストなど多角的に振り返ることができる内容になっています。

博物館の周りは戦車を中心にすごい人だかり。

珍しいソ連の警察車両もお目見え。




チェコ人でも若い人たちには実感の湧かない過去の出来事なのかもしれません。
記念撮影を求める観光客、戦車の前で無邪気に遊ぶ子供たち、のんびりお散歩してる犬…平和な光景をじっと見つめる年配のチェコ人たち。


当時の落書きが再現された壁をひとつひとつ目で追っていた年配の女性に、書いてあるチェコ語を尋ねました。
“včera bratři, dnes loupežníci!”(昨日までは兄弟、今日は略奪者!)という文章を説明してくれた後、彼女は当時のことを話し始めました。「100人が死んで…戦争、とは呼べなかったかもしれないけれど、それと同様の悲しい出来事だった。ちょうど1週間前に娘が生まれたの…。だからよく覚えているわ。」と。


チェコ事件」の犠牲者のひとり、マリエ・ハロウスコヴァーさんの記念碑には、トポラーネク首相からの真新しい花束が置かれていました。マロストランスカー駅に程近いこの緑地にある記念碑、すぐ隣は1945年第二次世界大戦のドイツ支配の犠牲者となったボツェクさんの記念碑。

すぐ隣り合う場所で、解放者としてのソ連と弾圧者のソ連が存在しているのです。

天文時計でおなじみの旧市庁舎1Fでは、9月13日までヨゼフ・コウデルカ(Josef KOUDELKA)氏の写真展「68年侵攻」(invaze 68)で、当時の様子が見られます。

当時の状況を考えれば、撮ったはいいものの、本名で発表などしたら命に関わる問題。作品は翌年秘かに西側へ持ち出され、撮影者のクレジットはPrague Photographer、つまり匿名で発表されます。コウデルカ氏は西側へ亡命しましたが、チェコ国内に残っていた家族のため、84年(家族が亡くなった年だそう)になるまで名乗ることはできませんでした。

最後にちょっと変わった戦車をもうひとつ。

キンスキー広場にこっそり置かれたこのショッキング・ピンクの戦車の一部は、ジシコフのテレビ塔を這う赤ちゃんや、ルツェルナ宮殿にある逆さ馬にまたがる聖ヴァーツラフ像、カフカミュージアム前のチェコ地図の上の向かい合うしょんべん小僧、フソヴァー通りのぶら下がり男などの奇想天外なオブジェで知られる有名なチェコの彫刻家、ダヴィッド・チェルニー(David ČERNÝ)氏の代表作のひとつ。


89年のビロード革命後、ようやく本当の自由を手にしたチェコを祝って製作(って言っても色を塗っただけだけど…)されたもの。普段は地方の軍隊博物館に納められていますが、最近勃発した南オセチアをめぐるロシアとグルジアの紛争に、チェコ事件を見る思いだという抗議の意味でチェルニー氏が無許可(笑)でココに置いたという話。「チェコ事件」と南オセチアの件が同種のものなのかということについては、考察が必要だと思いますが、いずれにせよ言いたいことはこれ。

「戦争のない世界は可能、そして必要」
自分はふかふかのベッドで戦車が来る心配のない絶対安全地帯で眠りながら、世界のどこかへ戦車を派遣している人たちが今もいることに腹立たしさを感じます。

奇想天外なオブジェでも花瓶でも、戦車の使い道はヒトゴロシ以外にもあるのだから。

Le temps des pluies, le temps des cerises 雨とサクランボの季節

私よりも多く食べてたよね…


日本のような梅雨はないといわれているチェコですが、暑い時期はスコールのような夕立がけっこうあります。

雨の日は石畳の舗道がとりわけ美しいのが好き。

今日はオフィスを出る直前に旦那から「映画に行かない?」とショートメール。見たかったけど少し前から雷&豪雨で傘はなし。。。少ししたら止むかなという願いもむなしく、映画館は歩いて10分の場所なのに雨宿り…ようやく傘なしで歩けそうになった頃には、映画はとっくに始まってたのでパス。仕方ないので終わり頃映画館へ行こうと、旧市街をプラプラお散歩。途中でまた無情にも雨が降りだし、結局濡れ鼠、行きたかった本屋はもう閉店してて、コーヒーも飲みたくない。好きな人から冷たくされてるように感じつつ、とぼとぼと石畳を歩くのみ。


「ねぇ、なんで湿度を不快指数って言うの? 私は雨の日体調がよくて好きなのに」「…大体の人にとっては湿気は不快なものなの!」昔のボーイフレンドとの会話を時々思い出す雨の日。他にもっと重要な会話してなかったのか。。。


冬はもちろん、夏も乾燥してるヨーロッパ、だから湿気万歳。前世は紫陽花かかたつむりあたりだったかも。いや、「乾燥を好む」とか書いてある植物をじめじめしたとこへ移したら元気がなくなるのと同じで、そう簡単には日本産が順応できないってコトかも。

でも食べ物への順応は早い(笑)。美味しい果物がチェコにはたくさんあります。手前からラズベリー、杏(あんず)、サクランボ。いつもサクランボを今はいない九官鳥と分け合っていたので、見るとまだ悲しい。だけどやっぱり好きなので、こないだ勇気を出して買ってみました。まだ少し酸っぱかったけれど。。。なるべく黒っぽい赤いのを選ぶのがコツ。写真は暇そうなカフェの軒先で売ってたもの。唯一の店員はケータイでおしゃべり中。。。

ちなみにお店に並ぶ前のサクランボは、こんな感じ。

旅行でチェコにいらしたら、街場であちこち見かける、ヴェトナム人がやっている青果店(ovoce-zeleninaの看板が目印)で、お目当ての果物を好きなだけ“量り買い”がこの時期のオススメ。


映画を見終わった旦那とNárodní třídaのヴェトナムレストラン(といっても見かけはただのチャイニーズレストラン)で牛肉のフォーをいただく。レモンをたっぷり効かせてサッパリ味。


Après la pluie, le beau temps♪
Sois bien,
Bisous de rybička

プラハを歩き倒せ!Rumikokさんのキュビズム体験記

全館まるごとキュビズム!


プラハも日中30度あたりをうろうろする蒸し暑い日が多くなりました。
次の更新までのインターバルが長い「リビチカ日記」も3年目を迎えようとしています。筆不精の私が、だましだまし続けてこれたのもプラハの美しさのみならず、コメント書いてくださる方々、何度開いても更新されてないのに辛抱強くのぞき続けてくださる方々、あるいは会うたびに感想を言ってくださるプラハ在住の方々、プラハで生きてるか確認用にチェックして(たまには中味も読んでくださいねっ)くれている日本の家族や友人、先輩諸氏、そしてアイデアからチェコ語チェック、更新のはっぱかけまで担当してくれてる旦那のおかげ。この場を借りてまとめてお礼申し上げます。

ブログを通じて知り合った人たちとプラハで美味しいお酒をご一緒したり、更新はメンドくさいんだけどもこのページのおかげで嬉しいこともたくさん。

時にはコメントの場じゃなく直接メールもいただくのですが、これがまた楽しいのです。ブログへの質問や感想のほかに旅の感想をその後送ってくださったり、実家の母のように食べ物を送ってくださったり(笑)。

で、今回はその中から私のお気に入りのRumikokさん文責のプラハ旅行レポートを一部盗用、じゃなかった抜粋したいと思います。2年前に許可もらっておきながら、今頃…?とご本人には言われそうですが。。。写真は適当にrybickaフォトストックから付けさせていただきます(あしからず)。


rybickaさん、こんにちは。
引続き第4弾です。

キュビズム、かなり満喫してきました。
プラハの観光でこのキュビズム建築巡りが
一番印象的だったかもしれません。
巡りと言っても限られた時間で行けたのは
黒い聖母の家、ヴィシェフラット地区のホホル3部作だけですが
もう、圧巻、魅了されまくりました。素敵過ぎます。
ちょっと角度変えて見ただけで、全然違う表情を見せる。
ラクルな世界でした。

黒い聖母の家にあった、何階か忘れましたが
入ってすぐ正面に展示されていた1人掛けチェア(ソファ?)、
もう倒れそうに素晴らしい!あの椅子の脚といったら・・・
椅子の脚はたった4本なのに、正面、斜め、横、後と
見る角度によって、全く別の4本以上の表情を見せるのです。
まるで何人もの美しく・個性的な女性達が我が脚を競うかのように
モデルのごとくポーズを決め込んだ・・・様な美しい脚でした。
曲線でなければ、空間、奥行き、広がりは表現出来ないと
思い込んでいましたが、直線の組合せのみで
これほど多様な表現を生み出せるんだと、強く感じました。




ヴィシェフラット地区のキュビズム建築を見に行ったときに
丘の上に結構大きな黒光りした教会がありました。
地球の歩き方の地図にかろうじて教会の名前は載っていましたが
特に詳しい説明も無く、それほど観光スポットになってないような
扱いでした(地球の歩き方では)。

この教会にも、かなり惹きつけられる何かを感じ
せっせと山道登っていきましたよ。
登ってみるとプラハの町の景色が見下ろせ、これまた素敵でした。
ガイドブックに注目されていないスポットを見つけられたので得した気分でした。
日本人には1人も会いませんでしたが、他国の観光客はちらほら居ました。
ネット検索したところ、聖ペテロ聖パウロ教会でした。
プラハ城からもこの黒い教会が見えて、すっごく気になっていました。



アンデルからヴィシェフラット地区まで歩き、建築、教会見て周り
その後は国立博物館へ歩き、動物の等身大の剥製に
これまた大興奮しながら見て周り、
歩きつかれフラフラになりながらラテルナ鑑賞前に
第3弾に書いた緑のリキュール入りラテ飲んだ店まで歩き食事。


眠気満載で『カサノヴァ』鑑賞でした。駄作で目が冴えましたが。。。
鑑賞後もアンデルまで徒歩で帰りました。

猛烈に歩きまくった一日でした。  

(引用おわり)

…とまぁこんな感じで、これが第4弾と書かれていることからもわかるように、連載モノで(笑)毎回楽しみにしていました。自分で書くよりやっぱり読むほうが面白いな。住んでいると初めの新鮮なキモチとか忘れがちで、プラハをドキドキ・ワクワクしながら歩くRumikokさんの感動が伝わってきました。ありがとう。

私も歩ける限り自分で歩いて見てまわりたいと思います。なにごとも。。。

チェコの大新聞Mladá Fronta Dnesご乱心?日系企業へのクリシェな批判記事

チェコで最も売れてる新聞のひとつ


こないだ心ある読者様より、「ブログ見てますけど…いまだに桜の写真って…」と面と向かって更新のサボりっぷりを指摘され少々反省。その後撮るだけは撮っている花々の写真も季節遅れになり、今プラハを歩いていて一番いい香りなのはきっとこれ。

白粉(おしろい)花に似た甘い香りのジャスミンが真っ盛り。

さて久々の更新、反省の意味もこめてアクチュアルな話題をひとつ。既にチェコ国内の日系企業の皆さんはご承知の話だと思いますが、昨日6月16日付のチェコの新聞、ムラダー・フロンタ・ドネスの1面および経済面トップとその次のページ、つまり3ページにわたって特集された日本企業についての記事の話。

まず1面の下段に載っていた記事の日本語訳(僭越ながら私の訳なので誤訳箇所もあるかとお断りしておきます)から。

「日本人上司ら失望、チェコ人が体操しない!」

日本人上司たちがお手本を見せる。日本で幼稚園の頃から慣れたやつを。最初は気が進まなかったチェコ人社員たちも、上司のお手本を見習ってピアノの音楽に合わせて腕を上げる。しかしチェコ人たちにやる気が感じられないのは火を見るより明らか。こんな光景が最近までとある日本の会社のチェコ支店で実在していたのだ。
“最初はチェコ人たちもユーモアとしてこれを受けとめていました。でも時がたつにつれ、そうはいかなくなったのです”。当時この会社で働いていたチェコ人の女性社員は、当時社内で毎日行われていた朝の体操についてこう語った。
“日本人は世界中に自分たちの会社文化を持ち込むことにご執心です。伝統に対して強い誇りを持っているのです”。こう語るのは、経済大学(Vysoká škola ekonomická)企業文化の専門家、Ivan Nový氏。“日本人にとって会社が最優先事項なんです”。
日本人ビジネスマンにとって一番の泣き所は、環境の違いからくるカルチャー・ギャップである。多くの場合、失望やフラストレーションが溜まった状態で終わる。社歌やら社内掲示板に貼った目標やら朝の体操やらをもってしても、チェコ人に愛社精神というものを教えられない、いや、むしろ逆効果なことを悟るのは日本人にとってつらいことである。
日本では、こういった儀式めいたものが社員と会社を結びつける忠誠心を育てると考えられたかもしれないが、チェコ人にとってはコミュニズム時代の全体主義的な規律をまず思い起こさせるものなのだ。長い間チェコ人たちを締め付けていたもの。チェコにある日系企業で行われていたこうした儀式はまさに、そのイメージで受けとめられたのである。

“その朝の体操は、何ヶ月か続いた後チェコ人たちの大反対にあい、結局やめざるを得ませんでした”。“この他、日本人ビジネスマンたちがチェコに来て驚くのは、チェコ人たちがひとつの会社に生涯勤めるわけじゃないということ”。先のチェコ人女性はこうも語る。日本人にとって会社を離れるということはつまり、その会社に対する裏切り行為に等しいからだ。


…とまぁ、こんな調子で、とある日系の製造会社に以前勤めていたチェコ人女性へのインタヴューを中心に、企業文化の専門家なる人たちの意見を交えて記事は進んでいきます。朝の体操のほかに社員全員が着なければいけない制服、細々した仕事の指示図や統計だとかが貼られた社内掲示板、残業、そう高くもない給料、年功序列、女性の限定的な地位、言葉の問題からくる意思の疎通の問題と仕事における慣習の違い、といったことが次々語られていきます。

掲載文を一応全部読んでみた感想としては、いちいち全部翻訳するほどの内容でもない、ということ。“日本人は生産的と言われてるけどホントのとこどうなの?”とか“カルチャーギャップから来る衝突にはどんなことがあった?”とか、なんだか煽るような質問が多いうえに、使われている写真は違う目的で撮られたもののようだし(つまりちょっとヤラセが入ってる)。名指しでいくつか具体的な会社名をあげていたり、そもそもこの新聞が日本でいえば朝日や読売のような、チェコで部数の多いポピュラーな新聞の1面で取り上げられたのが問題といえば問題。だってあまり日本と接点のないチェコ人が読んだら、なんだか不気味なアジア的儀式をチェコ人に押し付ける不可解な企業文化を持つ日本の会社、っていうイメージだもの。

ご丁寧にも各国の企業文化の特徴なる比較記事もあったりするのですが、これがまたなんとも…どっかでさんざん聞いたような典型的レッテルがいっぱい。例えば、アメリカの会社は自由と個性、クリエイティヴィティを重んじ、会議はビジネスライクでアジアの会社に比べるとはるかに効率的、上司はオープンで社外で非公式の交流も盛ん、不確実性を恐れずリスクも取る、とベタ褒め。かたやドイツ企業については、肩書きや地位、学歴が重要視され、上下がきっちり分かれてて階層的、閉鎖的、何でも前もって綿密に準備され、サプライズが嫌い、となんだかジメジメしたイメージ(笑)。日本と韓国については、団体行動や年功序列を強いられ会社が一番家族は二の次のアジアな会社、と乱暴なまでに一緒くたにされ、取材不足は否めません。

そのインタヴューに応じたチェコ人女性にしても、その会社のよかったところ、ポジティヴなことだって語っているし、彼女の話自体は経験からくる具体的な話なのでわりと面白いのですが、それを題材にしてセンセーショナルなカルチャー・ギャップの方向へと煽っている意図的なものを感じてしまいます。

この件で同僚のチェコ人たちと話してみると、似たりよったりの感想。気にする必要ないんじゃない、と。でも「大体のチェコ人は信じちゃうかもね」とのこと。反対に「日本の技術と会社文化はとにかく素晴らしい!とやたらと褒めちぎる記事もよく見かけるから、それを信じてこんなハズじゃなかったってなるよりはいいんじゃない?」という、なるほどな意見も。

ちなみに日本生活が長かったウチの旦那も、この記事については笑い話で済ませてました。「朝の朝礼をよく見かけたけど、毎日何をそんなに話すことがあるのか不思議だった。でも体操に関しては、例えば工場でいつも同じラインに立ち同じ筋肉しか動かさないから、労働者の健康や危険防止の意味があると聞いたことがある」と。会社への忠誠心、一体感を作り出すためだけに朝の体操をしていたとは思えないのですが、チェコ人にはどのように説明されていたのでしょう。。。ちなみに合気道をやってる同僚も、やはり練習の前に軽い体操をするのが習慣だから、この新聞の論調のように、なんだか宗教めいたアジアの不気味習慣とは受けとっておらず。

単なる説明不足、コミュニケーション不足なだけの話かもしれません。日本企業なんだから当然チェコの会社とは違うことをわかってて入ってくるだろうし、ちゃんと理由があればチェコ人だって分かってくれると思うのです。
記事には、工場のラインのあまりにきっちりした取り決め、全てのものが正確にあるべき位置、動きの過程に至るまで決められ、時間も窮屈、みたいなネガティヴな書き方が散見されましたが、メイド・イン・ジャパンのブランドはそのおかげもあるでしょ、と論理立てて説明すればほとんどの誤解は解決されるはず。改善するところがあれば、いい会社ほど聞く耳を持っていると思うし。理想は双方のいいとこどり、歩み寄りだと思うのだけど、それは理想論なのかしら。。。

「プラハの春」♪の『我が祖国』コンサート

本屋さんやスーパーTescoでも買えます


みなさまご無沙汰しております。日本から美しい桜の写真などを送ってくださった方々、懐かしくてウルっときちゃいました、ありがとうございます! 桜の季節はここプラハでもとっくのとうに終わっておりますが、プラハにも桜があるのよ!ってコトで、少し写真なぞ。

近所のお墓の駐車場(笑)に咲いてた桜。

こないだ建築巡りのお散歩で歩いたプラハ10区の桜ごしに見る聖ヴァーツラフ教会。これはあのキュビズム博物館の建物の建築家、ヨゼフ・ゴチャール(Josef Gočár)作の教会なのでゴチャールファンは必見の教会。ちなみに中には国立図書館のデザインですったもんだしているフューチャー・システム主宰のヤン・カプリツキー(Jan Kaplický)さんのお父さんが作った美しいステンドグラスがあります。どうやらあのタコ図書館は実現しなさそうです。。。ものすごく残念。

さて、今日のお題はプラハの春
プラハの春」(Pražské jaro)と聞いてチェコ人が思いつくものには二つあります。ひとつはもちろん1968年のチェコ事件。ドゥプチェク(Alexander Dubček、スロヴァキア人)率いる当時のチェコスロヴァキア共産党が「人間の顔をした社会主義」を目指した改革に危機を感じたソ連およびワルシャワ条約機構軍が軍事介入した事件のこと。

で、もうひとつの「プラハの春」は、スメタナ(Bedřich Smetana)の命日である5月12日に市民会館スメタナ・ホールで始まる「プラハの春音楽祭」。会場の市民会館(オベツニー・ドゥーム=Obecní dům)はプラハのアール・ヌーヴォー(セセッション)建築の代表的存在。

ちなみに、いわゆる大統領が臨席する初日のオープニングコンサートは、チェコ国歌「我が家(祖国)はいずこ」(Kde domov můj)も演奏され、ナショナリズム溢れる内容。チェコ政府関係者やスポンサー企業、政府から招待されたVIPで埋まります。でも残りの空席目指して半年前から争奪戦、チケットが高騰し、チェコ人よりもアメリカ人、ドイツ人、あるいは日本人に占められ、肝心のチェコ人は少ない、という状況。。。そこで普通の音楽好きのチェコ人も行けるよう翌日も全く同じプログラム、指揮者の「我が祖国」が演奏されるようになったのだとか。ここが会場のスメタナ・ホール。

この「プラハの春」音楽祭は、1946年、マサリク大統領の次の大統領、エドワード・ベネシュ(Edward Beneš)大統領の時代にチェコフィル設立50周年を記念して始まった歴史あるフェスティバル。活躍した指揮者としてカレル・アンチェル(Karel Ančerl)、ヴァーツラフ・ノイマン(Václav Neumann)、レオナルド・バーンシュタイン(Leonard Bernstein)、ビロード革命の直後、亡命生活42年後にタクトを振ることになったラファエル・クベリーク(Rafael Kubelík)、ウラディミール・アシュケナージ(Vladimir Ashkenazy)、「のだめ…」で日本でもすっかり有名になったズデニェク・マーツァル(Zdeněk Mácal)、ピアニストにはルドルフ・フィルクシュニィ(Rudolf Firkušný)、パヴェル・シュチェパン (Pavel Štěpan)などがいます。


スメタナ・ホールのロジェ席。

入口の階段も素敵でしょ?

物語の中に入ってしまったような気分になるこの廊下が好き。

この市民会館、すごいのは館内あちこちにあるステンドグラス、階段の装飾細部や各ホールや部屋の名前のロゴに至るまでアール・ヌーヴォー三昧なこと。コンサートに興味ない方でも、建築やデザインに興味ある方は内部をのぞいてみることをおすすめします。

アール・ヌーヴォーの始まりはベルギーだそうですが、ベルエポック時代のジャポニズムの影響(浮世絵の構図や独特の遠近法など)を受けているからか、一番見てて安心?できる建築スタイルな気がします。優雅で丸みを帯びてて、自然のモチーフがたくさんあって。パリで有名になったチェコ人画家、アルフォンス・ミュシャ(Alfons Mucha)(チェコ語ではムハと読みます)が手がけた「市長の間」は、パリ時代とかなり違う、彼の愛国心溢れるモチーフの絵が見られますが、市民会館の見学ツアーに参加しないと通常は見られません。

でも今(9月終わりまで)ちょうど旧市街広場のティーン教会前(Staroměstské náměstí 15番地)の「白い一角獣の家」(Dům U Bílého jednorožce)でここにある絵のリトグラフが見れます。

プラハの春」に話を戻すと、オープニングはいつもスメタナの連作交響詩『我が祖国』(Má vlast)で始まるのは1952年から変わらないのですが、クロージングコンサートは最近ドヴォジャーク(Antonín Dvořák)の曲に変わったみたいです。2003年まではベートーヴェンの第九で終わるっていうお決まりだったのですが(カレル大のチェコ語の授業でもそう習ったのに…教科書がもう古いみたい)。。。やっぱりベートーヴェンチェコ人じゃないから…? 
演奏はいつもチェコフィルというわけじゃなくて、例えば今年はブルノフィル(ブルノBrnoは、プラハに次ぐチェコで二番目に大きな街)。指揮者のペトル・アルトリヒテル(Petr Altrichter)は今年56歳のブルノフィル主席指揮者で、「プラハの春」デビューは1977年。随分若いころから活躍していた方のようで楽しみです。今年は12回目の出演を数えるそう。
外国のオケが演奏することもあって、例えば今年のクロージングはブタペスト・フェスティバル・オーケストラ、2005年のオープニングはロンドン交響楽団、といった具合。国際音楽祭として(観客はすでにチェコ人より外国人のほうが多いですが)演奏する側の出身国もバラエティに富んできているようです。

1968年の「プラハの春」も音楽とは切り離せないものがあります。

ビロード革命の際のヴァーツラフ広場でも歌われたマルタ・クビショヴァー(Marta Kubišová)の『マルタの祈り』はじめ、カレル・ゴット(Karel Gott)やイジー・スヒィ(Jiří Suchý)などの関連したチェコの名曲が聴けるコンピレート(なんとたったの39kcで音楽好きへのおみやげに最適?)も出ています。