やっぱりほしいタコ図書館!Chci to na Letný! ヤン・カプリツキーさん突然の死によせて

ここで本を読んでみたいの!


ついこないだ、ナーロドニー通りを歩いていたカプリツキーさんと偶然すれ違ったばかり。。。
散歩の途中のようなかんじで、おだやかに、でもしっかりとした足どりでKaroliny světlé通りへ曲がっていった後ろ姿が今も思い出されます。

1月14日水曜日20時55分、デイヴィツカーDejvická近くのこの場所、Československé armády20番地で倒れ、帰らぬ人となった建築家のヤン・カプリツキー(Jan Kaplický)さん。同じ日の14時に生まれた娘さんJohanka(ヨハンカ)ちゃんと対面し、7時間後のことでした。

お祝いのために集まることになっていたレストランへ向かう途中でした。倒れた後、犬の散歩の通りすがりの人に気持ちが悪いと訴えるも、“酔っ払ったおじいさん”が倒れていると通報される(→テレビに何度も出てたでしょうがっ!)→病院へ運ばれるまで放置されること15分。。。死因は家族の同意がないので明らかにされていませんが、救急車が来たときには既に呼吸が止まっていたとのこと。ミューラー邸で結婚式をあげた41歳年下の若い奥さんエリシュカ(Eliška)さんは同じ日に一番嬉しい瞬間と悲しい瞬間をその人生に刻むことになってしまいました。

翌日朝からラジオで速報され、15日の新聞でも1面に、16日の新聞では全4面にわたって関連記事が掲載されました。というのもこのブログでもしつこく書いてきましたが(2007年10月13日付記事または2008年2月18日記事参照)、カプリツキー氏は、手狭になったチェコ国立図書館(現在はカレル橋向かいのクレメンティヌム内にある)の移転先、フラチャンスカー(Hradčanská)近くのシュペイハルという場所に建設予定だった新図書館のコンペで優勝した建築家で、その斬新なデザインがチェコ国内中で議論を呼んでいたからです。

その形から、この新図書館のデザインはホボトニツェ(Chobotnice=たこ)の愛称で呼ばれるようになったのですが、プラハ城にも近いということで景観に合わないなどの理由で議論を巻き起こし、反対派の頂点に立っていたのがクラウス(Václav Klaus)大統領。「自分の体をもってしてもこの建設を阻止する」として、子分(?)のプラハ市長、パヴェル・ベーム(Pavel Bém)氏も仲間に引きずり込み、コンペで賛成してたはずのプラハ市は建設予定地を国立図書館へ売らない、というおかしな事態に。かくして正式な国際コンペで決定したデザインが実現されないまま、建設開始予定を過ぎて現在にいたっています。

去年の2月にはカプリツキーさんの友人らが中心になって、プラハのルツェルナで応援コンサートもありました。

カプリツキーさんを「一番の友達だった」と語る建築家兼歌手のパヴェル・ボベック(Pavel Bobek)さん。写真の左下に映っているのが若かりし頃のカプリツキーさん。

同じく友人のミュージシャン、チェコでは60年代から続いているベテラングループ、Olympicのヴォーカル、ペトル・ヤンダ(Petr Janda)さん。

そして長身でとてもかっこよかったカプリツキーさん!

カプリツキー氏は1937年プラハに生まれ、カプリツキーさんのお父さんは有名な画家&彫刻家&建築家。お父さんのヨゼフ・カプリツキーさんの作品は、プラハ10区にあるゴチャール(Gočár)作の教会内のステンドグラスに見ることができます。カプリツキー氏自身の作品はチェコ国内にひとつもない、というのは間違いで、若い頃手がけた民家がプラハ4区に今も残っています。

でも彼が納得して自信をもって故郷の街プラハに残したいと思った唯一の作品があのホボトニツェだったのだと思います。この反対騒ぎでかなり胸を痛めていたようでした。チェコ国内では2010年工事開始予定の、チェスキー・ブディェヨヴィツェČeské Budějoviceの文化センターRejnokがカプリツキー氏の代表作となることに。

ロンドンで(1968年に亡命)建築デザイン会社Future systemsを仲間と創立、一風変わった素材、何か生物を思わせるような丸みを帯びたデザイン、自然のエネルギーを取り入れたコンセプトなどで世界的に有名な建築家のひとりに名を連ねたカプリツキーさん。


プラハっ子にはすっかりおなじみの形となったホボトニツェをかたどった色紙に寄せ書きされた“Je to ostuda...”(It's a shame...)の文字。

まだ一縷の望みを私は持っています。。。