IFもしも…「プラハの春」が続いていたら。。。 Kdyby mohlo pokračovat Pražské jaro...?

…そして戦車がやってきた


3年ぶりの日本訪問を終えて、故郷の国から、懐かしい人たちからエネルギーをたっぷりもらって帰国しました。幸運にもお会いできた方々にお礼を申し上げるとともに、会いたくてもかなわなかった方々とは近いうちの再会がかなうことを願いつつ、プラハの日常へ戻りました。
久しぶりに聞いた蝉の声も、うだるような湿気を含んだニッポンの暑さもまるで幻だったかのような涼しいプラハ

ヴァーツラフ広場にもコスモスが美しく咲き、すっかり秋の気配です。

★「プラハの春」と「チェコ事件」
今からちょうど40年前の8月21日、正確には20日の深夜、チェコスロヴァキア(当時)は大きな悲しみに覆われました。新市街の中心的広場、ヴァーツラフ広場は、この悲しい出来事、いわゆる「チェコ事件」の象徴的場所です。
1968年8月21日早朝、“Rusové jsou v Praze!!”(プラハにロシア人がいっぱい!)の声で目覚めたチェコ人(ウチの旦那も例にもれず)が見たものは、プラハだけでなくチェコスロヴァキア全土に渡って夥しい数の戦車が美しい街々を蹂躙する姿でした。

第二次世界大戦後のヤルタ体制下、チェコスロヴァキアソ連・東側ブロックの一員として48年には共産主義政権が誕生。50年代のスターリン批判を経て、主に検閲の廃止や芸術表現の自由などを盛り込んだ「人間の顔をした社会主義」を目指し、独自の民主化路線、いわゆる「プラハの春」を歩んでいました。この動きに対し、ソ連や旧東欧諸国は共産主義体制存続の危機を抱きます。再三の交渉にも関わらず当時のチェコスロヴァキア共産党を率いるドゥプチェクの改革路線が不可避であるとわかった時、ソ連軍とワルシャワ条約機構軍(※チャウシェスク体制下のルーマニアをのぞく)はチェコスロヴァキアへの軍事侵攻を実行します。

40周年を記念して、国立博物館前に再び現れたソ連製戦車。

結果、108人の犠牲者と500人以上の重軽傷者を出し、社会主義の理想を追い求めた「プラハの春」は道半ばで頓挫します。ドゥプチェクが更迭された後、実権を握ったフサーク大統領の時代は「沈黙の時代」と呼ばれ、ソ連共産党が望む体制の「正常化」を強いられます。翌年1月には、改革の絶望的な後退に悲観したカレル大学生のヤン・パラフ(Jan Palach、チェコ・フィルの本拠地、ルドルフィヌム前の広場の名前にもなっている)、続いてヤン・ザイーツ(Jan Zajíc)が抗議の焼身自殺をとげる悲劇もありました。

ヴァーツラフ広場の南正面、国立博物館のすぐそばにあるJan Palachの自殺跡の記念碑。


ヴァーツラフ広場中ほど、聖ヴァーツラフ騎馬像の下にあるzajícとともに写真が飾られた記念碑。

68年当時現役の外交官として「チェコ事件」を目撃し、日本へ伝えた春江一也氏の小説『プラハの春』(集英社文庫、上・下巻)は、「プラハの春」前後のチェコスロヴァキアの状況を日本語で読める良書。物語にのめりこめるかは個人差があるにせよ、このヤン・パラフも重要な役どころとなって出てきます。この本を読むと、歴史にもしも…はないとしても、「プラハの春」が邪魔されることなく続いていたら、世界はどうなっていたのだろうと考えたくなります。ベルリンの壁崩壊が早まったのか、資本主義でも社会主義でもない第三の道があったのか、などなど。。。

さて40周年の今年は、各地で写真展をはじめ、様々な催しが。
いまだ当時の弾丸跡をその外観に残す国立博物館では、「…そして戦車がやってきた」(...a přijely tanky)と題する「プラハの春」と「チェコ事件」関連の展示が9月末まで続く予定。

ほぼ国葬扱いだったヤン・パラフのお葬式の様子などの映像、写真、チェコ国内でも初の公開となるドゥプチェクやパラフの愛蔵品、市民の手紙やイラストなど多角的に振り返ることができる内容になっています。

博物館の周りは戦車を中心にすごい人だかり。

珍しいソ連の警察車両もお目見え。




チェコ人でも若い人たちには実感の湧かない過去の出来事なのかもしれません。
記念撮影を求める観光客、戦車の前で無邪気に遊ぶ子供たち、のんびりお散歩してる犬…平和な光景をじっと見つめる年配のチェコ人たち。


当時の落書きが再現された壁をひとつひとつ目で追っていた年配の女性に、書いてあるチェコ語を尋ねました。
“včera bratři, dnes loupežníci!”(昨日までは兄弟、今日は略奪者!)という文章を説明してくれた後、彼女は当時のことを話し始めました。「100人が死んで…戦争、とは呼べなかったかもしれないけれど、それと同様の悲しい出来事だった。ちょうど1週間前に娘が生まれたの…。だからよく覚えているわ。」と。


チェコ事件」の犠牲者のひとり、マリエ・ハロウスコヴァーさんの記念碑には、トポラーネク首相からの真新しい花束が置かれていました。マロストランスカー駅に程近いこの緑地にある記念碑、すぐ隣は1945年第二次世界大戦のドイツ支配の犠牲者となったボツェクさんの記念碑。

すぐ隣り合う場所で、解放者としてのソ連と弾圧者のソ連が存在しているのです。

天文時計でおなじみの旧市庁舎1Fでは、9月13日までヨゼフ・コウデルカ(Josef KOUDELKA)氏の写真展「68年侵攻」(invaze 68)で、当時の様子が見られます。

当時の状況を考えれば、撮ったはいいものの、本名で発表などしたら命に関わる問題。作品は翌年秘かに西側へ持ち出され、撮影者のクレジットはPrague Photographer、つまり匿名で発表されます。コウデルカ氏は西側へ亡命しましたが、チェコ国内に残っていた家族のため、84年(家族が亡くなった年だそう)になるまで名乗ることはできませんでした。

最後にちょっと変わった戦車をもうひとつ。

キンスキー広場にこっそり置かれたこのショッキング・ピンクの戦車の一部は、ジシコフのテレビ塔を這う赤ちゃんや、ルツェルナ宮殿にある逆さ馬にまたがる聖ヴァーツラフ像、カフカミュージアム前のチェコ地図の上の向かい合うしょんべん小僧、フソヴァー通りのぶら下がり男などの奇想天外なオブジェで知られる有名なチェコの彫刻家、ダヴィッド・チェルニー(David ČERNÝ)氏の代表作のひとつ。


89年のビロード革命後、ようやく本当の自由を手にしたチェコを祝って製作(って言っても色を塗っただけだけど…)されたもの。普段は地方の軍隊博物館に納められていますが、最近勃発した南オセチアをめぐるロシアとグルジアの紛争に、チェコ事件を見る思いだという抗議の意味でチェルニー氏が無許可(笑)でココに置いたという話。「チェコ事件」と南オセチアの件が同種のものなのかということについては、考察が必要だと思いますが、いずれにせよ言いたいことはこれ。

「戦争のない世界は可能、そして必要」
自分はふかふかのベッドで戦車が来る心配のない絶対安全地帯で眠りながら、世界のどこかへ戦車を派遣している人たちが今もいることに腹立たしさを感じます。

奇想天外なオブジェでも花瓶でも、戦車の使い道はヒトゴロシ以外にもあるのだから。