世界の車窓から 〜プラハ・マサリク駅〜

今のマサリク駅は3度目の名前!


プラハには“ただいまの温度”を表示する電光掲示板がところどころあるのですが、昨日の日中見たときは32度だったのが、今日の夕方はなんとたったの10度。1日でそんなに差があると、体がついていけません。。。

日々の違いはもとより、1日内(つまり朝晩と日中)の寒暖差も大陸性気候らしく激しいのです。プラハの旅の服装のヒントは、とにかくこまめに脱ぎ着しやすいアイテムを揃えること。
具体的に言えば、首まわりが暖かいとだいぶ違うのでマフラーとかスカーフをカバンに入れて持ち歩くとか、風を通さない軽めのジャンパーを用意する、とかそういう工夫。旅行中は軽いにこしたことはないし、地元の人も観察してると重ね着・脱ぎ着を上手にしています。
日本よりもだいぶ乾燥しているので、現地のドラッグストアで調達するのもいいですが、ハンドクリームやリップクリームも特にこれからの季節、ババシャツ&タイツとともに必須アイテムでしょう。

さて、昨日からの続きで、今日はプラハ・マサリク駅をご紹介します。

共和国広場から歩いてすぐのこのこじんまりとした駅。現在は主に国内路線の発着に使われていますが、その昔、オーストリアハンガリー帝国時代、ウィーンからプラハドレスデンへと続く帝国でも最も重要な国際路線のひとつとしてプラハにできた最初の鉄道駅なのです。

駅前のトラム停から5番や26番トラムで南東に向かって一駅いけばプラハ本駅、歩いても行ける距離にあります。

プラハ本駅にももちろんありますが、駅にはインフォメーションというものがあります。マサリク駅のインフォはかわいい看板付き。でもいっつも電気が暗く、開いてるのか閉まってるのかわからない(笑)。だから外から見てやっていないようでも、ガラス越しに中を見て、PCの前に人がいるようだったら、やってるということ。

ここは鉄道の旅をする人には使える場所。英語で話しても通じないかもしれませんが、行きたい場所と往復か否か、行きたい日時などをアルファベットでメモって見せれば、PCから時刻表を打ち出してもらえます。例えば、目的の電車がマサリク駅からの発着じゃなくてプラハ本駅(Praha hlavní nádraží)からだとしても教えてもらえるので、混んでて浮浪者のおじさんたちが多い(ま、ここにもいますけど…)本駅で調べてもらうよりお得かも。

通りから入るとすぐ電車の発着が出る電光掲示板やらカフェやらパン屋、キオスクなどがあるホールがあって、その奥がそのままホーム&線路、つまりオール・ワン・フロアの迷いようがない駅。この1番線の横にやはりVIPルームがあって、こちらも本駅に負けず劣らず、扉の奥は別世界。

やはり豪華な会議室のような雰囲気。

こんなアンティークな電話器もあります。

グローブみたいだけど、座り心地よさそうな椅子も。


このVIPルームには、この駅にちなんだ二人の重要な人物の像が飾られてるのですが、そのうちの一人がヤン・ペルネル(Jan PERNER)さん。1845年オロモウツプラハ間を走ったのが初めての電車で、駅の場所選びから尽力したのがこの技師のペルネル氏。まだ鉄道の旅が安全ではなかった頃のこと、残念にも鉄道の事故で殉死した、まさにチェコの鉄道の功労者です。そして、もう一人はこの人。

そう、この駅の名前にもなっているチェコスロヴァキア初代大統領、トマーシュ・ガリグ・マサリク(Tomas Garrigue MASARYK, 1850-1937)です。

でも、現在の“マサリク駅”(Praha Masarykovo nádraží)は、“三度目のマサリク駅”なのです。つまりこういうことです。
1. 1845-1862:Praha(プラハ駅)
2. 1862-1919:Praha Statní nádraží(国立プラハ駅)
3. 1919-1940:Praha Masarykovo nádraží(プラハ・マサリク駅→1回目)
4. 1940-1945:Praha Hybernské nádraží (Prag Hibernerbahnhof)(プラハ・ヒベルニィ駅)
5. 1945-1952:Praha Masarykovo nádraží(プラハ・マサリク駅→2回目)
6. 1953-1990:Praha střed(プラハ・中央駅)
7. 1990年3月〜現在:Praha Masarykovo nádraží→(プラハ・マサリク駅→3回目)

オーストリアハンガリー帝国の重要な駅として作られた時代(プラハ、国立プラハ駅)→第一次世界大戦後の帝国解体とともにチェコスロヴァキアが独立を勝ち取り、誇らしげに付けられた初代大統領の名の駅。それが一世代ともたずドイツ占領時代に入り、ヒベルニィ駅と屈辱の変更を余儀なくされる。戦後のつかの間の平和を象徴するような再びのマサリク駅時代。
しかしながら48年に共産党が政権掌握。民主主義者として知られたマサリクは、共産主義者たちに嫌われたのでしょう、その後はプラハ中央駅(Praha střed)と呼ばれることに。長かったプラハ中央駅時代のために、年配の方の口からいまだこの名前を聞くことがあります。そして89年のビロード革命を経て、まるでマサリクを継承するようなヴァーツラフ・ハヴェル(Václav HAVEL)時代の幕開けに、三度目のマサリク駅となりました。
開通してから実に6回も名前が変わった駅。この小さな駅の名前の変遷は、まさにチェコ近代史とリンクするのです。
2000年に生誕150年を記念して建てられた銅像のマサリク元大統領は、プラハ城正門の前で今日も静かに正午の衛兵交代式を見守っていることでしょう。